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外食における「中華」。
餃子を抜きにしても、たぶん、人生で700回くらいは食べていると思う。
(外食しすぎ!)
「東秀」をはじめとする場末の中華料理屋では、必ずと言っていいほど、店内の片隅にジジイがいる。
それはもう十中八九の確率だ。
そんなジジイが注文する「メニュー」は、いつも決まっている。
そう、『たんめん』だ。
店内に入ってくるやいなや、
『たんめん!』
あれこれ悩んだ末に、
『たんめん!』
今日は調子がいいのか、
『餃子とたんめん!』
どんだけ、たんめん贔屓なのかと思う。
もしかしたら、戦後の義務教育では、『中華=たんめん』と教えられてきたのかもしれない。
なにより、
ボクに「初たんめん」へと踏み切らせたのは、そんなジジイたちによる影響のせいだと言っても過言ではない。
ボクたちが「ダウンタウン世代」なのと同じように、そのジジイたちにとっては、戦後の「たんめん世代」なのであろうと思う。
『THE LIBERTINES』
どうしようもない、ヤンチャな「四人組」である。
(喧嘩や窃盗、不法占拠、ドラッグ、逮捕歴などは数知れない。)
それゆえ、
実質3年くらいしか活動していない。
アルバムもたった2枚。
でも、夢を追うのなら、ヤンチャなくらいがちょうどいい。
わずか3年で夢破れた「バンド」だけれど、時代遅れになりつつあったギター・ロックを未来世代へ繋げた存在であるのは確かだ。
そんな『ザ・リバティーンズ』が遺したもの・・・
それは、英国の少年たちをワクワクドキドキさせた。
ギターを手にして「バンドを組む」という青春グラフティな「憧れ」。
言い換えれば、
ロックンロールという「夢」である。
人生、何でもいいから「何か」を残すべきだ。
それが、男の意地というもんではないか。
ちなみに、
「リバティーン」とは、「何者にも縛られない自由を生きる者」という意味らしい。
80年代のロック・シーンを席巻したスウェーデン出身のロック・グループだ。
なんて、抽象的な「グループ名」なのだろうと思う。
ボクたちで言えば、『アジア』みたいなもんである。
そんな「彼ら」の音楽を初めて耳にした中学生の時、『どうせなら、北ヨーロッパの方がいいんじゃねーの』と思ったコトが妙に懐かしい。
中でも、♪「The Final Countdown」は有名だが、ボクは、♪「Carrie」がこの上なく大好きだ。
日本の諺に、「肉を切らせて骨を切る」というのがある。
悔しいけれど、今は「肉を切らせて」おくのだ。そして、自分が実力をつけて強くなったら、自分の肉を切り続けた相手(=世間)の骨を切ってやるのだ。
これが、ボクの正直な気持ち。
この「負けず嫌い」さは、今もずっと変わらない。
果たして、来月の「RE:ポーランド」でどこまでできるか。
いざ勝負である。

四十数年前、いや、あるいはもっと前、地球のどこかのとある「密室」で、各国の政治家がコッソリと集結した。
その中には、軍事企業のトップも混じっていた。
A国の政治家が、
『第二次世界大戦によって、民衆はもう戦争なんかコリゴリだという思いを強くしてしまったようだ』
と言った。
B国の大臣が言う。
『いや、そんな心配はご無用。時が経ち、世代が変われば、こちらのスローガンの連呼でまた戦争をやりたがるバカが現れてくる。民衆なんて、チョロイもんですよ』
その楽観論を軍事企業のトップが打ち消す。
『あんさん、そないに簡単に考えてもろたらあきませんわ。時は待つもんやのうて、作るもんでっせ!』
そして、
自分が練り上げた計画の草案を各国の首脳に配った。
ケンケンゴウゴウたる意見のやりとりの後、2000年代を標的にした遠大かつ巧妙な「作戦」がまとまった。
題して、
【人間骨抜き計画】
それは、国々の環境や国民性を十分に計算された上で作成されたものだったから、それぞれの作戦が網羅されてある。
しかし、
目的は一つ。
次代を担う子供たちを決して精神的に高度な「大人」に成長させないこと。
賢くなってもらっては困る。
つまり、自分たちの意のままに動かすコトができなくなってしまうからだ。
まず、贅沢と享楽を与える。
実に、低級このうえない「文化」を作り出し、あらゆる媒体を利用して、その中にドップリと浸らせる。
学歴偏重社会を作り、幼少期から苛酷な受験勉強に駆り立てる等々・・・
思惑どおり、
この【人間骨抜き計画】は、今着々と実を結びつつある。
『クッキー』だっ!!
そんな時は、いつも木製の古びた「ポスト」にそっと置いてある。
大家さんなりのハロウィンだろうか。
これも、「愛のしるし」だろうか。
我が大家さんから頂いた差し入れは、数知れない。
年末年始をはじめ、クリスマス、バレンタインなどの「イベント系」。
蜜柑、林檎、バナナ、菓子パン、アーモンドフィッシュ、ショートケーキといった「三時のおやつ系」。
風邪を引いたら、まさかの「おかゆ系」。
もはや、挙げ出したらキリがない。
月並みな言い方だけれど、ほんと、いろんな人たちにボクは支えられているな−と思う。
人間、一人では生きられないのだ。
この当然の「事実」が、わからなくなっているのが、現代文明の一凶ではないか。
そういう意味で、大家さんは、語らずして「人情の機微」を教示してくれる「先生」でもある。
な−んて。

スキマスイッチの♪『全力少年』が好きだ。
ダウンタウンさんの「ごっつ」時代のコント『スキマ男』も好きだし、井上陽水の♪『少年時代』も好きだけれど、スキマスイッチの♪『全力少年』はもっと好きである。
なにより、
ゾウさんも好きだが、キリンさんの方がもっと好きだ。
そもそも、
『全力少年』というタイトリングがいいし、その歌詞は清々しい。
まるで、近代日本の詩人・中原中也の『汚れちまった悲しみに』を読んだ時のような青春の「ほとばしり」に似ている。
たぶん、
青春とは、言うにやまれぬ情熱の、全力で事を成そうとする魂の「ほとばしり」である。
(ひゃ〜)
行く度に後悔する。
そして、
「二度と行くまい」と一人静かに決意する。
なぜなら、
あの家畜のエサみたいな「生野菜」に腹が立つからだ。
(わしゃ馬か!)
なにより、
あのキムチと豚肉の量の「アンバランスさ」に憤りを覚える。
(キムチ贔屓か!)
カルビのいつまでたっても飲み込めない「執拗さ」に地駄足を踏みたくなる。
(天然ゴムか!)
茄子味噌の過剰な「油」に神経が萎えてくる。
(魚のアブラボウズか!)
トマトカレーの度を越えた「酸味さ」に歯ぎしりしたくなる。
(どっちメインやねん!)
とどのつまり、
戦争ほど残酷なものはないし、松屋ほど悲惨なものはない。
ボクも大人なのだから、いいかげん「学習」してもいいはずなのに、月日が経つと、その決意を忘れてしまうらしい。
まるで、「アリとキリギリス」だ。
余談だが、
俳優の梅宮辰夫は、週に何度か、一杯6000円の「牛ヒレ丼」を食べるらしいが、そんな松屋の「牛丼」を食べたら、たぶん発狂すると思う。
いや、暴れるんじゃないか。
あるいは、「釣り竿」をブンブン振り回すんじゃないか。
そうなった時は、もはや、妻クラウディアにしか止められない。

何を血迷ったか、今年の冬は、『レギンス』を履きこなしてやろうかと考える。
それも、大胆に。
むしろ、周りから「ドン引き」されるくらいに。
イギリスの社会学者「ハーバート・スペンサー」の言葉を借りれば、
第一に大胆たれ
第二に大胆たれ
第三に大胆たれ
である。
『レギンス』・・・
まるで、バスケの「反則プレー」みたいな名前だが、昔でいう親父の「パッチ」みたいなもんだろー
(違うのかい?)
大阪のオバハンがよく履く「スパッツ」みたいなもんだろー
(違うのかい?)
でも、その温かさは「パッチ」や「スパッツ」と同じだろー
三十路男の『レギンス』・・・
そのしゃかりきな「姿」を想像するだけで、ボクは、やっぱり怖じけづき、ゲロが出そうになるでギンス。

今の時期、店や街のあちこちで、オレンジ色の「カボチャ」や黒の装飾類が見られる。
そう、『ハロウィン』だ。
(ハローキティではない)
♪解説しよう!
『ハロウィン』とは、
キリスト教の万聖節の「前夜祭」として、10月31日に行われる伝統行事であり、秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す「祭り」である。
その起源は、古代ケルト民族の祭り「Samhain」が起源だと言われ、 古代ケルト人とローマ人両民族の祭りが組み合わさっていき、そこにキリスト教が取り入れられて現在の行事になったらしい。
つまり、
『ハロウィン』は、古代ケルト・古代ローマ・キリスト教という3つの文化的要素が混合したものなのだ!!
しかし、
その文化的「真意」を、心得ている日本人は何人いるか。
日本では、所詮、「ビジネス」に利用されているだけにすぎない。
それは、「日本」という国がキリスト文化で成立した国じゃないからであって、至極当然の話である。
もしキリスト文化の国なら、今のバイト先で、目の部分をくり抜いた「カボチャ」をかぶっておどけて見せたり、黒いマントを羽織った「骸骨」になりすまして、セカセカと接客していることだろう。
(怒られるわっ!)
『ハロウィン』。
日本人には、そんな片意地張った『ハロウィン』は似合わない。
日本人なら、やはり「お茶漬け」サラサラ文化か、「わびさび」の文化である。

ボクは、大学時代や20代の時の「記憶」よりも、乳幼児から小学生時代の「記憶」の方が鮮明だったりする。
例えば、
小学校一年生の時。(6歳)
担任は、女の「武先生」。
顔中シワだらけの、タラコ唇クソババアである。
列順に「プリント配布」する時、必ず指で「下唇」をペロッとしてから、プリントを数え始める。
だから、必ず「一枚」だけ、赤い口紅が付着しているのだ。
当時のボクは、小学校随一のチビで、名簿も【あ】なので、たいてい一番前の席が多く、そんな大人の淫らな口紅がついたプリントを後ろに回すことは、『クラスの風紀を乱すコトになる』と思って、いつも「口紅付き」のプリントをボクが取るようにしていた。
さらには、
放課後、デブの大南くんと遊んでいたら、そのデブ野郎がグランドの隅に横倒しされていた木製の電柱に脚をひっかけてしまい、「太もも」をザックリ切ったコトがある。
その時、「切り口」から溢れ出たのは、赤い血ではなく、黄色と白の固体物質・・・
まるで、タマゴのコールスローみたいだったのを覚えている。
たぶん、あれが「脂肪」なのだろうけれど、あの時の「グロテスクさ」を上回る経験は、未だ遭遇していない。
あと、
この話をすると、必ず「ウソだ!」「妄想だ!!」と罵られるのだが、あえて書く。
「乳児」時代。
1歳か2歳くらいだと思う。
その記憶が、ボクにはあるのだ。
断片的ではあるが、その「記憶」は三十路になった今でも消えるコトはない。
乳児ならば、誰しも己のオカンの「ちち」を吸う。
CHICHI
そりゃー、がむしゃらに「吸う」だろう。
しかし、
ボクには、その行為が、とても「恥ずかしかった」のである。
「乳児」の手前、そこは無邪気に「吸わなければならない」ため、ボクは赤面しながらも吸い続けた。
できるなら、粉ミルクの「哺乳瓶」にしてほしかった。
でも、自分からは言えない。
ただ『時を待つ』しかない。
そして、
時が熟し、「哺乳瓶」へと変わった時のあの「解放感」は、今でも筆舌に尽くしがたい。
ちなみに、
うちのオカンの左乳首には、小さな「ホクロ」がある。
(わしゃ、何を言っとるんだ!)
(何のカミングアウトやねん!)
それらに加え、
乳児のくせして、家の浴槽で溺れかけた「記憶」もあるし、ハイハイして、階段から真っ逆さまに転げ落ちた「痛い記憶」もある。
そんな記憶話を昔、オカンに話したら、ビックリしてた。
ああ、人間の記憶の不思議。
それは、神秘的で、とても宇宙的である。

「邪悪なる風」と書いて、「風邪」。
ほんと邪悪である。
鼻水ズルズルになるのは、たぶん『妖怪ズルズ−ル』の仕業だ。
ちきしょー

ボクの中で、古今東西の『天才』を三人挙げるとすれば、
◆アルベルト・アインシュタイン
◆チャーリー・チャップリン
◆レオナルド・ダ・ビンチ
である。
今回は、その一人、「レオナルド・ダ・ビンチ」について。
誰もが知る、ルネサンス時代の巨匠だ。
絵画、彫刻はもとより、音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など、彼の「探求」の翼は限りなく広がり続けた。
その偉大さの前には、芸術家だとか、科学者だとか、天文学者だといった「線引き」は、あまりにも無益であるとボクは思う。
なにより、
その生涯において、一万ページ!とも言われる膨大な「ノート」を書き綴っていたという歴史的事実。
いわゆる手記やメモ帳、雑記帳である。
芸人で言えば、「ネタ帳」だし、推理作家なら、「トリックノート」かもしれない。
生意気に、ボクも「雑記帳」を持っている。その時、知ったコト、学んだコト、感じたコト、思いついたコト、気に入った言葉などを書き綴っておけば、忘れないし、後になって思い返すコトもできる。
彼が残した「ノート」の中で、ボクが気に入っている言葉のフラグメントを紹介しておこう。
『執拗な努力よ。宿命の努力よ』
↑万能の天才ならではの、言葉だと思う。
『幸運は、みずから努力する人にのみ宿る』
↑なんだかんだ言っても、「誠実」に努力し続けた者が最後には勝つのだ。
『翼を開いて逆風をそれにとらえ、それによって高く上昇する』
↑いつか、人間が空を飛ぶことを夢見た彼の言葉だけれど、すでに「揚力」という存在を発見しているコトに驚く。
痛快なる人生は、逆風を飛翔のチカラに変えてこそ。

昨日、狛江駅で、『おっとっと』をポリポリつまみながら、Suicaのチャージを試みようとしている「おっさん」がいた。
ボタン押す度に、『おっとっと』を一個食べるのである。
どっちかにせーよ!!
欲張りか。
わし、その後ろ、並んどんねん!!
早くしてくれ。「打ち合わせ」に遅刻するじゃないか。
窺ってみると、「一万円札」がなかなか入らない様子。
(あぁ〜、イライラするぅ〜)
片手でやろうとするから、そうなるのだ。
まず、『おっとっと』を諦めるべきだ。
それでもなお、福沢諭吉が入らなかったら、それは『おっとっと』による手についた「油」のせいだ!!
人生、「諦め」も肝心である。

『割れ窓理論』
アメリカ・ニューヨークの「犯罪」を減少させたと言われる理論だ。
【1】
ある建物の「窓ガラス」が一枚割られる。
【2】
それが修理されないまま放置される。
【3】
ほどなく、残りの「窓ガラス」も全部割られてしまう。
つまり、
「秩序」を乱す行為が放置される地域には、犯罪がはびこる。
しかし、
迅速に秩序違反を取り締まる地域は、そんな「犯罪」を抑止できるという理論であ−る。
大昔、ユーラシア大陸にモンゴル帝国を築いたチンギスハーンならまだしも、喫茶店にオシャベリ帝国を築いたオバハーンの「騒がしさ」と「図々しさ」だけは、なんとか抑止できないものかと思う。
その『割れ窓理論』という利剣を持って、ズバズバと成敗することができたら、どんなに快活であろうか。

『不可能こそが、若者の心を高鳴らせる』
〜フランスの歴史家
ミシュレ

たしか、以前にも書いたコトがある。
90年代後半に活躍した英国の女性ポップ・グループ、『バナナラマ』について。
バナナマンさんでもなければ、チベットのダライ・ラマ14世でもない。
『バナナラマ』である。
彼女たちが創り出す「音楽」を聴いていると、本当に自分のコトを理解してくれる「友人」が隣りに座って、静かに微笑んでいるような気分になってくる。
こっちから何も語りかけなくても、きちんと答えを用意して、それを伝えてくれる「友人」。
そういう「友人」を持つことは、現実にはとても難しい。
また表現者がそういう「友人」を音楽なり、映画なり、舞台演劇なり、文学なりの世界に住まわせ、万人へと伝えるのも、たやすいコトではない。
ごく小数の限られた者だけが、そういう「表現」に成功し、感動を後世へと残すのだ。
その意味で、『バナナラマ』の音楽は、稀な成功例の一つであるとボクは思う。

通称「ウサギ林檎」。
昔から、春の遠足にはつきものである。
林檎と言えば、寒い冬のイメージだが、「ウサギの耳」がついたような形に切ると、なんとなく春の果物であるかのような気がしてくる。
事実、ボクが小学生の時、春の遠足の弁当には、必ず「ウサギ林檎」が入っていた。
それが、オカンの愛情の「印し」なのだろうが、当時は到底、そんなふうに思えない。
とにかく、恥ずかしくて恥ずかしくて、しょうがなかった。
まるで、女の子みたいで、クラスの奴からバカにされた。
なぜなら、
「小学生」という少年たちの中に、「逞しさ」というものへの憧れと「可愛いらしさ」への嫌悪というものが芽生える時期だからである。
楽しいはずの遠足から帰宅すると、決まって、オカンに徹底抗戦した。
『オカン!これからもう〜「ウサギ林檎」、入れんといてや!』
『はい、はい』
しかし、
また遠足の時期がやってきて、いざ弁当箱を開けてみると、また「ウサギ林檎」が入っている。
『だから!!』
となるのが、常だった。
そして、
騒いでいる友達の輪から外れて、茂みの中で、真っ先に「ウサギ林檎」をシャリシャリ食べるのである。
(証拠隠滅っ!!)
その姿は、ある意味、ウサギだ。
最近、歳のせいか、林檎を見ると、そんな遠い「記憶」が甦る。
(ジジイか!)
たぶん、それが、ボクの「林檎」におけるドラマツルギーなのだろうと思う。

また我がアパートの話。
ここ最近、秋の夜長のせいか、隣りの「アホ学生」が夜に「口笛」の練習をするようになった。
(「アホ学生」に関しては、過去のブログを参照。タイトルは『眠れない夜』)
どうした!
何があったんだ!
恋でもしたのか。
あれから、さらに「口笛サークル」へでも入ったのか。
あるいは、ただ単に、「いいコト」ばかりが続いているだけなのか。
というか、
「何デビュー」やねん。
大学生にありがちな「煙草デビュー」はあるけれど、「口笛」は聞いたコトがない。
最近の大学生の間では、ウィルコムと口笛がステイタスになっているのか。
そもそも、
夜に「口笛」吹いたら、「ヘビ」が来んだってばぁ!!
子供の頃、親から教わったはずだぞ。
つまり、
「君の部屋にやって来る」というコトは、イコール、「ボクの部屋にもやってくる」というコトなのだ。
共同アパート独特の、スキマ風が吹きすさぶベニヤ板一枚の「壁事情」は、君もよく知っている通りじゃないか。
「口笛」の練習は、大学かアルプス山脈でやってくれ。
バーカ、バーカ

アレクサンドル・デュマの名作「三銃士」。
小学生の時は、テレビアニメで見たし、小説として読んだのは、だいぶ大人になってからである。
昨日、NHKで人形劇『新・三銃士』が始まった。
NHKは、「人形劇」が得意だと思う。
ず−っと昔、人形劇「三国志」というのもやってて、妙にハマったのを覚えている。
でも、
今回の「人形劇」は、相当、金がかかってるんじゃないか。
なにより、
カメラワークも、映画やドラマのように「カットバック」で撮ってるし、シーンによっては、ちゃんと切り返して撮っている。
人形自体の「デザイン」も、精緻で、とてもミステリアスな雰囲気だ。
そして、
脚色は、三谷幸喜さん。
ちょいちょい演劇的なテイストが入ってて、笑わしてくれる。
ボクは、ああいう「テイスト」が大好きなのだよ。
つまり、
「ボケ」じゃなくて、その役ならではの「台詞の言い回し」だったり、「雰囲気のズレ」だったり・・・。
さすが、三谷幸喜といった感じ。
ともあれ、
『三銃士』本編に出てくる「銃士の誓い」は、あまりにも有名である。
【一人はみんなのために。みんなは一人のために】

「金木犀」
あああ・・・、いい匂い。
この時期、毎年そう思う。
もし、「おっさんサラリーマン」の加齢臭が「金木犀」だったら、社会においても家庭においても、その地位は飛躍的に向上するだろう。
例えば、
あれだけ嫌がっていた高校生の娘から、「洗濯モノを一緒に洗ってくれ」と頭を下げられ、鬼嫁からは、毎月の「お小遣い」を二倍増しでもらえる。
電車通勤の場合、自分の周りには若いウーマンたちが群がり、毎日「スター感覚」を味わえる。
しいては、底打ちの日本経済を活性化させ、この世界的不況を脱出する「きっかけ」になる。
名付けて、
『おっさんキンモクセイズムが世界を救う』!!
夢のまた夢。金木犀。
できるなら、ずっと埋もれていたい。

そういや・・・
ブラマヨ吉田さんから、まだ「千円」返してもらってない。
ま、大阪時代の話。
33歳になった。
(ゾロメ!!)
以前にも書いたけれど、ボクは金を積まれようとも、二十歳に戻りたいなんて絶対に思わない。
しかし、
自分の「核」に存在する「こども」は、失ってはならないと思っている。
現実の「こども」は、決して天使なんかじゃないけれど、言葉としての「こども」の中には、天使の属性があると思う。
その自分の中の「こども」を守ってゆくコトが、歳を積み重ねていく上で一番大切だ。
つまり、
「大いなる幼児性」と「老成した知性」の共存が、ボクの理想的な歳の取り方である。
ポール・ニザンは、『人生で二十歳がいちばん美しい』と言ったが、別の箇所ではこう言っている。
『ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとはだれにも言わせまい』

ボクは、東秀の『野菜ちゃんぽん』が好きである。
あの絶妙な旨味スープ。
できるなら、ずっと浸かっていたい。

先日の中秋の名月。
バイト終わりに、「店長」と店の屋上へ上がる。
タバコをスパスパ吹かしながら、男同士で静かに鑑賞。
(ゲイではない)
にしても、
煌々たる「月」っ!!
見栄や虚飾なんて、冴えわたる月光の前では色褪せる。
そんな秋の七草の一つと言えば、『芒』(すすき)。
あの「シンプルさ」が、ボクはスキ。
屋上のどこかに颯爽と生えてないものか。
今や屋上庭園があるくらいだから、「屋上ススキ園」があってもいい。
ちなみに、
花言葉は、『心が通じる』だそうだ。
ああ、天までとどけ。

「台風18号」
明日か明後日くらいで関東上陸か。
来るなら、さっさと来やがれ!
煽る気象ニュースばかりで、台風に備える国民は「間のび」しとんねん。
あの歴史的な「ノルマンディー上陸作戦」も、迅速に作戦を遂行したからこそ、意味があった。
『遅参其の意を得ず』である。
何事も、タイミングだ。
台風18号よ、さっさと来やがれ。

実は、ライターよりマッチの方が「文明的」だと思う。
タバコを吸うなら、本当はマッチがいい。
マッチを擦った時の、あの昭和的な「匂い」がボクは好きだし、一本のマッチは、火が消えてからも、闇に対していくらかの照力を持っている。
つまり、
マッチを擦った人間、その火を見た人間にわずかな「残像」を与える。
その暗闇と静寂・・・
ボクがまだ小さい頃の「家族花火」を思い出すし、中学時代の「深夜のバイク遊び」を思い出したりする。
(ワルい子っ!!)
とにかく、
そのようなセンチメンタルさが、ボクはライターより「文明的」と言いたいのだよ。
『破天荒』という言葉があるけれど、破天荒には、そんな火薬臭いマッチがよく似合う。

ボクは、不幸にも「カニ」と「エビ」のアレルギーである。
と言っても、昔からではなくて、ここ数年前からの話。
食べると、お口の中が痒くなり、ほっぺたの粘膜がブクブク腫れ上がる。
なにより、
ノドチンコまで痒くなってくるので、引っ張り出して、「金おろし」でガリガリやりたくなる。
大好きなのに・・・
「カニ」と「エビ」が大好きなのに。
悔しいぞぉ−!!
我が体内アレルゲン。
何があったんだよ。
学生時代は、そんなコトなかったぞ!!
まるで、ラディゲの小説『肉体の悪魔』じゃないか。
体内アレルゲンのバーカ、バーカ!!

電車の「線路」に、もし美学なるものがあるのだとしたら、それはド田舎のような「単線」にこそ存在すると思う。
ずっと遠くに山が見え、何時間走っても景色が変わらない。
しかし、
長いトンネルを抜けると、急に青い海岸線が見えたりする。
あるいは、
生い茂る緑野の中を突き進んでゆく時の清々しさ。
なにより、
機関車トーマス的な「Just go on forwards!」という愚直さ。
乗客たちの詩的思念。
それらは、ド田舎の「単線」でしか絶対に味わえない。
とても、Irresistibleではないか。
ボクは、電車マニアではないけれど、これが「線路」における美学だと思っている。

「成金ババア」というのは、なぜあんなにも始末にわるいのか。
バイト先の某珈琲店。
◆携帯で電話しながら、メニューの注文をする。
(どっちかにしてくれ)
◆VISAカードで払おうとする。
(あの、「珈琲」なんですけど・・・)
◆満席だったら、「満席なんだけど」と報告してくる。
(甘えんじゃねー)
◆紙ナプキンを必要以上に使う。
(エコの精神ゼロか!)
◆自分一人のために、店内の室温を変えようとさせる。
(どっかの国の王妃か!)
◆階段の昇り降りを執拗に嫌がる。
(膝に爆弾かかえたプロレスラーか!)
何を考えとるんだ。
そんな沢尻エリカ的な振る舞いを、ボクは許さんぞ。
おそらく、路傍に咲く一輪の花の「けなげさ」なんて、アンタらには一生わかんないだろうし、飾られた造花を見て、アンタらは「ホンモノの花だ」と言うんだ。
なにより、
ボクには、ウィーンのオペラハウスで『セビリアの理髪師』を観るような貴族趣味はないし、虚勢だけのブルジョア趣味もない。
世の中を動かしてゆくのは、永遠に「庶民」なのだ。
誰の言葉なのか、何の本だったかは忘れたけれど、ボクが大学生時代に感銘を受けた「一節」がある。
『命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、という人間はまったく始末にわるい。しかし、そういう始末にわるい人間でなければ、世の中を根底から動かすことは出来ないのだ』
この真意、アンタラーニはわかるまい。

この夏、東欧ポーランドへ行った時、ある「ジプシーの親子」がいた。
ヨーロッパでは当たり前の話だが、日本人にとっては、やはり異様な光景である。
ましてや、ポーランド。
「東洋人」なんていない。顔を覚えられて、ほんと往生した。
つ、ついて来るのである!!
それも、悲しい哀音の声をあげて。
それは、トラム(路面電車)の車内だったり、バスだったり、イェロゾリムスキェ通りだったり、コペルニクス像前のKFCだったり・・・。
日本のホームレスとは、またちょっと違う。
簡単に言うなら、「ジプシー」とは「物乞いのプロ」だ。
まだ生まれたばかりの自分の「子供」の腕や足をわざと曲げて奇形にし、道ゆく人々の同情を買ったり、ジプシーとして「一人立ち」できるようにする親もいる。
事実、その子の両足首は逆に向いていた。
そんな姿を目の当たりにすると、世の中、生きるコト以外にたいした問題なんてないなぁと思う。
人生なんて挫折して当たり前だし、世の中、うまくいかなくて当然である。
どんな状況になろうが、親に手足を曲げられるジプシーの「子供」と比べたら、何百倍、何千倍もマシじゃないか。
うまくいけば、手を叩いて喜んで、うまくいかなかったら、『ま、世の中、こんなもんだ』って口笛吹いて笑ってやればいい。
そういう意味では、日本人はあまりにも几帳面なのかもしれない。
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